【どうする家康!】ミステリアスな巫女・千代のモデルと噂される、望月千代女とは?武田信玄の命を受けた「歩き巫女」を統括したか
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鷹橋 忍
ミステリアスな巫女・千代のモデルは?
次に千代を見ていきましょう。
神秘的で妖艶な巫女の千代は、初登場のときから注目を集めていました。
その千代のモデルと噂されているのが、望月千代女です。
望月千代女は、武田信玄の命を受けて「歩き巫女」を統括・養成し、諸国の情報を集めたとされる伝説的な人物です。
歩き巫女を統括・育成した?
望月千代女は、望月盛時の妻とされます。
望月盛時は、中山太郎『日本巫女史』には「武田信玄の甥」と記されていますが、望月城主・望月信雅の父ともいわれる(吉丸雄哉・山田雄司編『忍者の誕生』 吉丸雄哉[望月千代女伝の虚妄])、詳細が定かでない謎多き人物です。
その盛時ですが、武田方として戦った、永禄4年(1561)年の「第四次川中島の戦い」で戦死してしまいます。
すると、信玄は千代女を「甲斐と信濃の二国の巫女頭」に任じました。
千代女は旧縁を頼って信濃国禰津村(長野県東御市)に土着し、甲斐・信濃の巫女を支配下に置いたといいます(福田晃『神道集説話の成立』)。
ここで教育された200人以上の歩き巫女が、諸国で情報収集を行なったとも伝わります。
たしかに長野県東御市禰津には、江戸時代まで「ののう」と称される歩き巫女の村が、存在していました(吉丸雄哉・山田雄司編『忍者の誕生』 吉丸雄哉[望月千代女伝の虚妄])。
では、望月千代女は実在の人物で、本当に信玄の歩き巫女だったのでしょうか。
前述の吉丸雄哉[望月千代女伝の虚妄]では、望月千代女の伝記を検証した結果、望月千代女という巫女、かつ女忍者いたというのは「虚妄の説」であるとしています。
望月千代女は実在しなかったかもしれませんが、ドラマの千代はそのミステリアスな魅力を存分に発揮して戦国乱世を艶やかに駆け抜け、私たち視聴者の心に、その存在をしっかりと刻むのではないでしょうか。