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【どうする家康】政争に敗れた石川数正(松重豊)。突然の出奔に踏み切った理由は?

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鷹橋 忍

突然の出奔

数正はなぜ、出奔したのでしょうか。

様々な憶測がなされていますが、研究者の多くが、徳川家中における、秀吉への外交方針をめぐる政争に、敗れたことを指摘しています。

ドラマでも描かれた小牧・長久手の合戦は、天正12年(1584)3月に始まり、11月に和睦が成立して、終結しました。

長久手の合戦では家康方が勝ちましたが、全体的には秀吉方の勝利でした。

和睦に際して、松井玲奈さん演じるお万が産んだ家康の次男・於義伊(のちの結城秀康)、数正の子・勝千代(のちの石川康勝)らが、秀吉に人質として送られています。

ところが、天正13年(1585)6月、織田信雄から、「家康の家老中からも、秀吉に人質を出してはどうか」という提示があったといいます。

その理由は、秀吉が小牧・長久手の合戦で家康・信雄方に味方した、越中の佐々成政を攻めようとしているが、家康と佐々成政が通じているという疑惑が、秀吉の耳に届いているからです。

研究者の藤井讓治氏は、信雄の提示を「秀吉の意向を踏まえてのこと」だとしています(藤井讓治『徳川家康』)。

政争に敗れる

ドラマでも描かれたように、数正は秀吉との交渉を担当していました。

秀吉に接する機会が多かった数正は、秀吉の力も恐ろしさも熟知していたのでしょう。秀吉との融和路線を主張していたといいます。

しかし、徳川家中は秀吉に屈したくないという強硬派が大多数を占め、数正は孤立無援の状態でした。

江戸前期の儒者・山鹿素行が著した『武家事紀』には、「人皆疑テ秀吉ニ通スト云ヘリ」と記されおり、数正は徳川家中で、「秀吉に通じているのではないか」との疑惑をもたれていたのかもしれません。

数正は新たな人質の要求に対しても、「人質を出すべき」との考えをもっていたといいます。

ですが、『家忠日記』の天正13年10月28日条によれば、家康は家臣を浜松城に集めて人質について協議させ、その結果、人質を拒否することに決まりました。

数正は政争に敗れたのです。この会議の翌月、数正は出奔しました。

ドラマの数正は、どのような理由で出奔に踏み切ったのでしょうか。

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