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【どうする家康】徳川四天王がドラマから姿を消す。四天王の子孫はどこの城主になった?

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鷹橋 忍

【どうする家康】徳川四天王がドラマから姿を消す。四天王の子孫はどこの城主になった?

「どうする家康」第44回より(C)NHK

徳川家康というと、どういうイメージをもっていますか? 2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、どんな家康が描かれるのでしょうか。戦国武将や城、水軍などに詳しい作家 鷹橋 忍さんに、知られざる徳川家康の姿や時代背景などについてひも解いていただきましょう。

★前回はこちら★

【どうする家康】小早川秀秋(嘉島陸)の早すぎる死の原因は、お酒の呑み過ぎだったか

大河ドラマ『どうする家康』第44回「徳川幕府誕生」では、ついに家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開きました。

また、板垣李光人さんが演じた井伊直政、杉野遥亮さんが演じた榊原康政、山田裕貴さんが演じた本多忠勝が、この世を去りましたね。

大森南朋さんが演じた酒井忠次はすでに亡くなっていますので、これでいわゆる「徳川四天王」は、ドラマから姿を消しました。

そこで今回は、徳川四天王の子孫を取り上げたいと思います。

酒井忠次の子孫は山形県鶴岡市へ

酒井忠次は、天正16年(1588)に長男の酒井家次(1564~1618)に家督を譲って隠居し、慶長元年(1596)10月に死去しました。享年70です。

『寛政重修諸家譜』によれば、家次は天正18年(1590)、家康が秀吉の命令により関東に移封になった際に、下総国臼井(碓井 千葉県佐倉市)三万石を与えられています。

その後、家次は慶長9年(1604)には上野国高崎五万石、元和2年(1616)に越後国高田(新潟県上越市)十万石に、転封しています。

家次の子・酒井忠勝(1594~1647)は信濃国松代(長野市)十万石を経て、出羽国庄内(山形県鶴岡市)十三万八千石に入部しました。

以後、酒井氏は鶴ヶ岡城(鶴岡市)を居城とし、この地を明治4年(1871)の廃藩置県まで治めています。

井伊家は「大老の家」に

井伊直政は、関ケ原合戦の約2カ月月前の慶長5年(1600)7月の時点で、「よこねふるひ」という病状で、外出もままならないような状態であったといいます(野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』)。

それにくわえ、ドラマでも描かれたように、同年9月の関ケ原合戦において、島津隊の放った鉄砲に当たり、傷を負っています。
それにもかかわらず、戦後も激務をこなし続けました。

直政は関ケ原合戦での功績から、中村七之助さんが演じた石田三成の旧領・近江国佐和山十五万石(滋賀県彦根市)を与えられましたが、慶長7年(1602)2月1日、居城とした佐和山城で亡くなりました。

42歳での早すぎる死でした。病と、関ケ原での怪我と、激務がたたったのでしょうか。

直政の跡は、直政と正妻の間に生まれた井伊直継(1590~1662 のちに直勝に改名)が継ぎました。
この直継のときに、彦根城の築城がはじめられています。

『寛政重修諸家譜』によれば、元和元年(1615)2月、直継が「多病」のため、家康の意向により、直継の異母弟・井伊直孝(1590~1659 直政の庶子)が、近江国内十五万石の領主の座を相続したといいます。

直孝は、二代将軍・徳川秀忠、三代将軍・徳川家光、四代将軍・徳川家綱を支え、その後、井伊家が「大老の家」となる礎を築きました。

大老は江戸幕府の最高職です。

常置ではなく、必要に応じて置かれるので、大老になったのは10人しかいないのですが、そのうち5人が井伊氏であったといいます(公益財団法人静岡県文化財団『湖の雄 井伊氏 ~浜名湖北から近江へ、井伊一族の実像』)。

有名な幕末の大老・井伊直弼も、その一人です。

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