田原俊彦さんに楽曲提供した作詞・作曲家がすべてを失ったあと、62歳ではじめた意外な仕事とは?
20代、30代は作詞・作曲家として誰もが知るヒットソングを生み出し、40代は子育てに専念。50代でショコラティエに、62歳で日本にお店を開き、68歳で新天地を見つけた夕美子さん。その途切れないパワーの秘密を伺いました。
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お話を伺ったのは
ウォーマック夕美子さん
うぉーまっく・ゆみこ●1956年生まれ、東京都出身。
80年代に作詞・作曲家の宮下智として、トップアイドルのヒット曲を数多く手がける。36歳で結婚を機に渡米し、専業主婦に。
趣味で始めたチョコレート作りにハマり、50代でショコラティエに。
60代でトリュフの店を始め、音楽活動を再開。
68歳で群馬県に移住。
目の前のチャンスを受け入れて走り抜けた40代まで
多彩な活躍をしてきたウォーマック夕美子さんは若い頃から、向こうからやってくるチャンスを大切にしてきた。最初は音楽留学。きっかけは14歳のある日、アメリカ人のピアノ公開レッスンに参加したこと。気に入られて、「私のところで勉強しませんか」と誘われた。高校1年生で渡米し、卒業後はサンフランシスコ音楽院に進学。ここで作曲の面白さを知る。しかし音楽で食べていくという強い信念があったわけではなく、帰国。
「自己主張するのが当たり前のアメリカで暮らしたため、すぐに親と大ゲンカをして実家を出ました。昼間は靴屋さんの倉庫で働き、夜はレストランでウエイトレスをして何とか生活費を稼いでいました」
そんなとき、友人のレコード会社のプロデューサーから「音大を出ているなら作曲できる? 書いてみる?」と尋ねられ、何も考えずに「書けます!」と答えたところから運命が変わっていく。
なんと、書いた曲が田原俊彦さんのデビューシングル「哀愁でいと」のB面曲に採用され、次に書いたのが大ヒット曲「ハッとして!Good」だった。そこから田原さんや少年隊など他のアイドルにも多数楽曲を提供。留学は決してムダではなかった。
その後、アメリカ人と結婚して渡米。39歳で高齢出産をした。
「子育てって面白くて、子どもから教わることばかりでした。一緒に何でも楽しめるのがうれしかったですね」と当時を振り返る。