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【どうする家康】家康の身代わりになった夏目広次(甲本雅裕)の壮絶なラストシーン

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鷹橋 忍

三河一揆では一揆勢に加担

広次は、永禄4年(1561)の三河長沢城攻めで軍功をあげましたが、永禄6年(1563)年に勃発した「三河一揆」では、ドラマでも描かれたように家康に背き、一揆側に加担しました。

一揆が家康に平定されると、一揆側についた家臣の中には帰参を許されない者もいましたが、広次は赦免されました。

広次は家康に深く感謝し、自宅の持仏堂で仏に向かい、毎日のように、「主君のお役に立ち、この身を果たしたまえ」と口にしていました。

のちの三方原合戦で家康の身代わりとなったのは、このときの恩に報いたものだといいます(大石学・佐藤宏之・小宮山敏和・野口朋隆編著『現代語訳徳川実紀 家康公伝5【逸話編】家康をめぐる人々』)。

三方原合戦での恩返し

元亀3年(1572)に起きた三方原合戦において、広次は浜松城で留守居をしていました。
ですが、徳川勢の危機を知ると、手勢を引き連れて、家康のもとへはせ参じたといいます。

広次は家康に、すぐに城に戻るように勧めました。
ところが家康は、「このような負け戦をして引き返しては面目が立たない。くわえて、敵の追撃を受ければ、引き返すのも困難だ。もはや、ここで討ち死にするしかない」と拒否したといいます。

すると広次は、家康の馬の口の手綱をつかみ、側にいた家康の家臣・畔柳武重に、「私が身代わりになる。お前は、お供をして城に帰れ」と告げると、十文字の槍を手に、自らを家康と称しながら、追撃してきた武田勢と戦いました。

広次は奮戦しましたが、討死したといいます(大石学・佐藤宏之・小宮山敏和・野口朋隆編著『現代語訳徳川実紀 家康公伝3【逸話編】三河から関東の覇者へ』)。

享年55、家康の恩に報いることができ、満足のいく最期だったのでしょうか。

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