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【どうする家康】武田勝頼(眞栄田郷敦)が叫んだ「御旗・楯無ご照覧あれ」。誓った取り決めは、絶対に破ってはいけなかった

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鷹橋 忍

【どうする家康】武田勝頼(眞栄田郷敦)が叫んだ「御旗・楯無ご照覧あれ」。誓った取り決めは、絶対に破ってはいけなかった

「どうする家康」第22回より(C)NHK

徳川家康というと、どういうイメージをもっていますか? 2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、どんな家康が描かれるのでしょうか。戦国武将や城、水軍などに詳しい作家 鷹橋 忍さんに、知られざる徳川家康の姿や時代背景などについてひも解いていただきましょう。

【前回】

【どうする家康】磔になりながらも忠義を貫いた鳥居強右衛門(岡崎体育)。実は妻子がいて、子は関ケ原で活躍を!

大河ドラマ『どうする家康』第22回「設楽原の戦い」では、タイトル通り、設楽原を舞台に、徳川・織田連合軍と武田軍の激しい戦いが描かれました。

偉大な父・信玄を超えようと、不利を承知で戦いに挑んだ、眞栄田郷敦さん演じる武田勝頼の雄々しい姿は、負けてもなお、多くの視聴者の心に焼き付いたのではないでしょうか。
橋本さとしさんが演じた、武田軍の山県昌景の壮絶な討死も印象的でした。

そこで今回は、武田勝頼と山県昌景、そして、後述する「御旗・楯無」を取り上げたと思います。

御旗・楯無とは?

武田勝頼は、天文15(1546)に誕生しました。
天文11年(1542)生まれの家康より4歳、天文3年(1534)生まれの織田信長より12歳年下です。

設楽原の戦いが起きた天正3年(1575)5月当時、数え年で勝頼は30歳、家康は34歳、信長は42歳でした。

勝頼は徳川・織田連合軍に挑むにあたり、兵を鼓舞し、「御旗・楯無ご照覧あれ」と叫んだのちに、出陣を命じていましたね。

この「御旗・楯無照覧あれ」とは、何を意味するのでしょうか。

御旗・楯無への誓約は、けっして破ってはならない?

御旗・楯無は、武田氏の神宝です。
「御旗」は、日の丸の旗。
「楯無」は鎧です。「楯が無くでも良いくらい強固な鎧」という意味ではないかとも推測されています(鈴木亨『甲州歴史散歩―武田三代の興亡』)。

御旗・楯無も、武田氏の先祖・新羅三郎義光(源義光)の父・源頼義が、朝廷より拝領したとされます。

源頼義が三男の新羅三郎義光に与え、武田家に代々伝えられてきました。

御旗・楯無は神聖化されており、武田家では「御旗・楯無ご照覧あれ」と、御旗・楯無に誓った取り決めは、当主であろうと、絶対に破ってはいけなかったようです(山梨県編『山梨県史 通史編2』)。

設楽原の戦いでの大敗

江戸時代初期に編纂された、武田信玄・勝頼二代の事績・合戦・軍法などを中心に記した軍学書『甲陽軍鑑』によれば、設楽原の戦いの前に、長篠において、橋本さとしさんが演じた山県昌景や、馬場信春をはじめ多くの人々が、「御一戦は無用です」と、勝頼を諫めたといいます。

ところが、勝頼は、「もはや、明日の合戦はやめることはない」と御旗・楯無に誓ったため、その後は誰も異を唱えられなくなり、決戦となったことが記されています(『甲陽軍鑑』 巻十九 品第五十二「長篠合戦」)。

本当にそのような経緯があったのかどうかは定かでありませんが、いずれにせよ、設楽原の戦いがはじまりました。

結果はご存じの通り、武田軍の大敗です。
この戦いで、武田軍は膨大な戦死者を出しました。
重臣も多く失っており、山県昌景も、その一人です。

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