ダウン症の娘とふたり一緒に死のうと思ったことも。 その先に見えた希望とは?書家・金澤泰子さんインタビュー
一度きりの個展のはずが 未来への第一歩に
翔子さんが14歳のとき、夫の裕さんが突然の心臓発作で急逝した。
それから1年も経たないうちに、実妹が病気で他界。金澤さん親子のよき理解者であり、陰になりひなたになり支えてくれる大きな存在だった。
「不幸が続いて、途方に暮れました。でも、悲しんでばかりもいられなくて。実業家だった夫の会社をたたむために、やらなければならないことが、山のようにあったんです」
会社は海外にもいくつかあり、整理に奔走する日々が続いた。忙殺されて数年が過ぎていく中で、翔子さんが就職に失敗してしまう。
「書類のミスでした。私が忙しくて、翔子のことに目が行き届かなかったせいなんです。万事休す、でした」
そんなとき、ふと思い出したのが、夫の生前の言葉だった。
――翔子には書の才能がある。20歳になったら、個展を開いてお披露目しよう――
それはいいかもしれない、やってみようと金澤さんは思った。
「生涯に一度だけ、翔子の個展を盛大に開こうと。立派な図録も作りました。私にとっては終活の意味もあったんです。私が死んだら翔子は施設に入るだろう、そのとき、この図録があれば、こんなに良いことをしたのだと皆に認められて、よくしてもらえる、寂しい思いをしなくてすむかもしれないと」
2005年12月、銀座の一流書廊で初めての個展を開催。その反響は、ささやかな母の願いをはるかに超え、書家・金澤翔子が誕生するきっかけとなった。
この町でずっと楽しく暮らせたら
翔子さんが自ら宣言し、ひとり暮らしを始めて8年経つ。金澤さんの住まいとは「スープの冷めない距離」だが、こまごました家事も買い物も、ほぼ翔子さんが自分でこなしている。
「不安はありましたが、思い切って自立させてよかったです。ありがたいことに、町の方たちが何かと助けてくださって。翔子は翔子で、この商店街にすっかりとけ込んでいるんですよ。毎日とても楽しそう」
ゆくゆくは、ふたりが暮らしているこの町に、翔子さんを託すことができれば――そんな希望が見えてきた。
「何度も暗闇に落ち込んでは、そこに一筋の希望を見つけて這い上がる、それが私の来た道だったように思います。どんなに闇が深くても、希望の光は必ず見つかります。もっといえば、闇が深ければ深いほど、光はより際立って見えるものなんです」
娘とともに生きる町に『画廊・翔子』をオープン
2022年7月にオープンした翔子さんの画廊。展示される作品は3カ月に1回くらい入れ替わり、購入も可能だ。泰子さんの著書や、作品をモチーフにした絵はがきや一筆箋も。「ここは人情味あふれるあたたかな商店街の一角。娘もこの町で、生き生きと暮らしています」。運がよければ翔子さんに会えるかも?
●東京都大田区久が原3-37-3
☎03-3753-5447
開廊時間/11:00~20:00 木曜休
https://www.k-shoko.org/