【姜尚中さんのターニングポイント】両親の国・韓国を初めて訪れたときの衝撃/ネットで広がる反中感情を考察
今年8月で75歳になるという、政治学者 姜尚中さん。数々のベストセラー本を持ち、論客としても知られる姜さんは、今この時代を「乱気流に入っている」といいます。話題の新刊『最後の講義 完全版 政治学者 姜尚中』(主婦の友社)では、世界の中で、私たちがこれからをどう生きるのかという指針を示しています。今回は、姜尚中さんのターニングポイントについてお話を伺いました。後半では“反中意識”の背景を考察します。
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今年75歳・姜尚中さんに聞く「人生後半戦、もう私は一人になりたいわ」そんな思惑の先にある落とし穴姜尚中さんが「あれがターニングポイントだった」と思うのは?
——先生が今まで生きてこられた中で、ターニングポイントをひとつあげるとすると、どういったことになるでしょう。
姜尚中さん(以下、姜尚中) ターニングポイントというと、ひとつは大学に入ったことでしょうね。ちょうど東大闘争の時に入った早稲田の政治学科です。なんとはなしに入って2年目ぐらいから自由な時間が与えられたんですが、それが苦痛で苦痛で、どうしたらいいかわからなくて。1972年、22歳のときに初めて韓国に行って1カ月間留学をして帰ってきて、そこから自分が変わったかもしれません。
——両親の国、韓国の地を初めて踏んだことが、考えが変わるきっかけとなったと著書でもふれていらっしゃいますね。ご自身のアイデンティティとどう向き合っていったのか——という。
姜尚中 当時は60年から70年代の大きな転換期でした。60年代っていうのは何かというと、要するに「造反有利」。反抗していることが自分の存在理由みたいな時代で、だから学生運動もあった。そういうものに煽られて、でも私はその中にも入ることもできない。かといって大学はレジャーランド化している。
皆さんは想像もできないと思うんだけど、あの時代は六大学を卒業しているというだけで、3年生の終わりぐらいから、処分できないぐらいのリクルートの資料が送られて来るわけですよ。それで青田刈りと称してどこに連れていくかっていうと、パリに連れて行ったんです。フランスのパリですよ。たとえばどこかの商社はパリ、それからハワイ。ああ、どういう時代でしょう(笑)。そこまでいかなくても、連日ニューオータニや帝国ホテルのランチだったかディナーがね。今とはずいぶん違う。
私はね、まず自分は就職できないと思っている、ナショナリティがあるから。どうするかっていうこともあったんですが、4年生の時に一社だけ、SONYを受けたんです。SONYはグローバルだから。でも何の音沙汰もなかった。
それでね、今から十年以上前でしたか、品川のSONYの本社に講演で呼ばれて、2000人ぐらいを相手に話をしたときに、「SONYに断られてここにいます」と言ったら、みんな爆笑でした。そのころSONYは大変で、ゲームで儲かるちょっと前だった。かつての面影もないときで、「さすがに先生は先見の明があった」って(笑)。
そのときの講演会場の印象ですが、男ばっかりなんですよ。なぜかっていうと理科系が多いから。女性のユーザーのニーズをフィードバックできなかったんですね。当時は国際化が進んでいなかった。あれから15年くらい経つかな。うん、SONYはガラリと変わりましたね。
話を戻すと、私は仕方なく大学に行ったのですが、大きな変化になりました。私のターニングポイントをひとつあげるとすると、その時代ですね。
——古希を迎えて、「心身若くなり、年齢はどうでもよくなった」というふうに書いていらっしゃいます。70歳になったこともターニングポイントといえますか?
姜尚中 父親が73歳で亡くなっているから、それを過ぎるとなんかこう、自分自身はちょっと吹っ切れた感じだから、それはありますね。ある程度、いろんなものを受け入れていくしかない。とにかくやれるだけはやってみよう、そういう時期ですね。