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ダウン症の娘とふたり一緒に死のうと思ったことも。 その先に見えた希望とは?書家・金澤泰子さんインタビュー

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ゆうゆう編集部

世界的な書家として知られる金澤翔子さんの、母であり師である金澤泰子さん。多くの試練や苦難を乗り越えて、ようやくたどり着いた境地とは? これまでの人生を振り返りつつ、語っていただきました。

PROFILE
金澤泰子
かなざわ・やすこ●1943年、千葉県生まれ。明治大学卒業。
書家の柳田泰雲・泰山に師事。90年、「久が原書道教室」を開設。
東京藝術大学評議員、日本福祉大学客員教授、久が原書道教室主宰。
『金澤翔子、涙の般若心経』『ダウン症の書家金澤翔子の一人暮らし』『天使がこの世に降り立てば』など著書多数。
知的障がいの子をもつ親に向けての講演会も精力的に行っている。

私に教えられるのは書道しかなかった

「小学校4年生のときでした。授業で書いた書が、県の大会で大きな賞を取って表彰されたんです。それが嬉しくて、『私には書の才能がある、この道で生きるんだ』と、思い込んでしまって(笑)。それから70年、書だけはずっと手放さずに生きてきました」と金澤泰子さん。その隣で、愛娘の翔子さんがにっこりほほ笑む。

「この子のためになったので、続けてきてよかったと思います。でも、今まで翔子を書家にしようなんて思ったことはありません。『英才教育をしたんでしょう』と言われることもありますが、そんなことは全然。私がわが子に教えられるのは、書道しかなかった、だから救いを書に求めたというのが、正直なところです」

翔子さんが5歳のとき、金澤さんは自宅で書道教室を始めたが、「近所の子どもたちのために何か役に立つことがしたくて」、そして「翔子にお友達をつくってあげたくて」、そんな思いからだった。

「ただ、翔子が初めて筆を持ったとき、すでに『構え』ができていたんです。この子は筋がいいとは思いました。でも、それ以上何か期待することはありませんでしたね」

翔子さんにも、欲や競争心などあるはずもない。大好きなお母さまに喜んでほしい――その一心で筆をとり続けた。やがてその無垢な思いが才能と相まって、大きな花を咲かせることになる。

1985年、42歳でようやく授かったわが子には知的障がいがあり、ダウン症だと告げられた。そのときの心境は、「心が折れる」などという、生易しいものではなかった。

当時は障がい者への理解が進んでおらず、情報も手に入りづらかった。また、偏見やおかしな迷信も色濃く残る――そんな時代背景もあった。

「奈落の底に突き落とされたようでした。この子も、この子を産んだ私も生きていてはいけない。一緒に死のうとまで思いつめてしまって。赤ん坊の翔子に薄くしたミルクを飲ませて、衰弱死させようとしたこともありました」

でも、目の前のわが子は天使のようにかわいい。行きつ戻りつしながら死に切れないまま、神仏にすがるようになったという。

「あの頃の私は、祈ることが仕事でした。どうかダウン症を治してください、奇跡を起こしてください、と。幼い翔子を背負ってお地蔵様巡りをしたり、病気平癒を掲げる宗教を訪ねて、ご祈祷してもらったり」

奇跡が起きることはなかったが、「祈る」という行為だけは、その後も金澤さんの習慣となった。

「信仰している神様も宗教もありませんが、今も毎日、感謝の念を込めて無心に祈っています。そうすると、何か大きな力につながるように思えて、心が穏やかに、前向きになれるんです。おかげで、日々の中で起きることに一喜一憂しなくなりましたね」

ここぞというときは、写経で慣れ親しんだ『般若心経』の一節を、心の中で唱えることもある。

「『般若波羅蜜多』と。私にとってこれは、魔法のおまじないなんです」

学校に行かせず「書」に向き合った日々

翔子さんが小学校に通い始める頃には、現実を受け入れられるようになった金澤さん。家族で過ごす日常を楽しむ余裕も生まれた。

「夫が大らかな人で、プラス思考の性格だったので、その影響もありました。『ダウン症だからといって何も変わらない、良い子じゃないか』と、本気で思える人なんです。翔子をとてもかわいがって、世間体を気にする私をよそに、どこにでも連れていっていました」

このままどうか平穏に……と願っていた矢先、「事件」が起きた。

「3年生のとき、通っていた小学校から、4年生になったら特別支援学級のある遠くの学校に転校してほしいと言われたんです。毎日楽しそうなのに、先生にも恵まれて、お友達もできたのに……。悔しくて、どうしても納得できませんでした」

結局、学校へは行かずに、金澤さんと翔子さんは、ふたり自宅に引きこもった。

「あり余る時間を使って、翔子に書を教え込もうと思い立ちました。障がいのせいで、今後も理不尽な目に遭ったり、深い孤独を感じたりすることもあるはず。そんなときに書があれば、救いになると思って」

怒りと絶望の中、ふたりで般若心経に取り組んだ。翔子さんは厳しい母の言葉に泣きながらも音を上げず、楷書の基本をすべて習得。このとき書き上げた「涙の般若心経」と呼ばれる作品は、今も翔子さんの代表作の一つだ。

「その後、転校したのですが、翔子は大喜びで楽しく通ったんです。この子には、普通学級も特別支援学級も関係ない、苦しんでいたのは私だけ。そう気づきました。翔子は、私の苦しみに寄り添い、元気づけようとしてくれていただけだったんです」

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