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ザ・タイガース武道館解散の日。僕も沢田も涙で歌った『青い鳥』【79歳・森本太郎さんのターニングポイント#3】

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藤岡眞澄

グループサウンズの黄金期を牽引したザ・タイガース。その中で森本太郎さんは、仲間から厚く信頼される存在でした。当時のGSでは珍しい自作曲「青い鳥」は今も多くのファンに親しまれています。衝撃的な成功の日々と解散、音楽プロデューサーの活躍など、森本さんの人生のターニングポイントについて伺いました。第3回は、武道館のラストステージの思い出。

▼第2回はコチラ▼

>>「タイガースはいつも楽屋で寝てましたね」と言われた、日本一のバンドの舞台裏【79歳・森本太郎さんのターニングポイント#2】

解散コンサートでジュリーと歌った『青い鳥』は忘れられない

——誰もが人気絶頂、と感じていた1969年3月に加橋かつみさんの脱退が発表されたのは、衝撃的でした。

メンバーの間に、考えや意見の違いが出てきていましたからね。

翌年に田園コロシアム(田園調布のテニスコート)でコンサートをやったときには、リードギターのかつみがいなくなっていたので、僕はたいへんでした。その分、印象に強く残っています。

——そこから解散に向かうきっかけは何でしたか?

ちょうどそのころ、グループサウンズ自体がだいぶ衰退してきたことも肌で感じていました。特に、僕らがデビューした後から「オリコンチャート」で毎週のレコード売り上げがチェックできるようになったんです。

すると、売り上げが低迷したバンドから順に解散していく流れが始まった。そのうち、「僕らもそろそろだろうな」という感じになっていきました。一度下り坂に入ったら、また盛り返すのは無理だろう、と。

——解散が1971年1月24日。結成して4年足らずで解散の決断をするとはもったいない、潔すぎると誰もが感じたと思いますが。

潔かったとしたら、ピーのおかげ。もちろん僕らも事務所としても仕方なしの決断でしたけれど。

実は、トッポが辞めたとき、ピーも辞めて芸能界を離れたがっていた。でも、マネジャーに「貯金あるの? ない? じゃあ、頑張ってお金を貯めなきゃダメだ」って説得されて、解散が1年先延ばしになったんです。

できるだけファンの方がいらっしゃるうちに、日本武道館で「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」と銘打った解散コンサートができたのも、1年という時間があったからかもしれません。

——武道館のラストステージで『青い鳥』を演奏する森本さんが、途中から涙で歌えなくなったシーンが忘れられません。

『青い鳥』はまだかつみが脱退する前に、僕が初めて作詞作曲した曲。僕にとっては、ほんとうの処女作です。

「タイガース」の名付け親でもあり、恩人でもある作曲家のすぎやま(こういち)先生に」「イントロがすごくいいね。そのまま使うよ」とほめていただいてうれしかった思い出もあります。

『ヒューマン・ルネッサンス』という3枚目のアルバムに収録されて、のちにシングルカットもされて、僕にとっては思い入れの深い曲なんです。

終盤に沢田と二人で歌うんですが、「あー、これで終わりなんだ」「みんなともう会えないんだ」ってジワジワ実感してきたら、涙が出てきて歌えなくなりました。沢田も涙ぐみながら歌っていましたね。

——明日からはそれぞれ別の道を歩むんだ、という思いですね。

はっきり言って、「ザ・タイガース」のメンバーは、僕にとっては“竹馬の友”みたいなもの。

幼なじみから始まって、バンドを作って、日本一を夢見て合宿して……。プロになる前から5人でいろんな経験をしたことを思い出したら、万感胸に迫るものがありました。

——ほかのメンバーの様子はどう感じましたか?

みんなそれぞれ、胸にこみ上げるものを曲にぶつけるように、夢中で演奏し、歌っていたと思います。メンバーの姿を見て、「これが僕にとって青春の終焉だ」と感じました。

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