ザ・タイガース武道館解散の日。僕も沢田も涙で歌った『青い鳥』【79歳・森本太郎さんのターニングポイント#3】
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藤岡眞澄
西城秀樹の音楽プロデューサーとして奔走も!
——そんな解散コンサートから間もなく、「タローとアルファベッツ」を結成されました。
解散する半年前から、渡辺プロに「タローはどうしたい?」と聞かれたので、僕は「バンドを作りたい」とすぐに答えました。
逆に言えば、「解散後もがんばらないといけないな」と覚悟が決まった感じでした。「曲を作らないと」「メンバーのオーディションもしなければ」と考えることがたくさんあったので、解散後の寂しさはそれほど感じないですんだのかもしれません。
——続いて「森本太郎とスーパースター」を結成された後、プロデューサーの立場に回られたのにはどんな理由が?
芸映プロダクションから、「西城秀樹の音楽プロデューサーをやってくれないか」と誘われたのがきっかけです。当時の秀樹は結構売れ始めていたから、やりがいがありました。
——それまでアーティストとしてプロデューサーから「こうしてほしい」と指示されていたのとは全く逆の立場ですね。
言ってみれば僕のちょっと悪い癖で、“仕切り屋さん”なんです。
「ファニーズ」の頃から「1曲目、2曲目はこれだ」とか「この曲はトッポに合ってるな」「これは沢田が合ってる」とか、セットリストを作ることもありました。
曲を決める基準は「僕らみたいな下手なバンドが演奏できるか、できないか」。やりたいことと、やれることは別だ、ということはわかっていたつもりです。
——裏方としての経験は森本さんにとってどんな意味がありましたか?
たとえば、秀樹の大阪球場でのスタジアム・コンサートに、僕もスタッフで入ったんです。あれだけ大きな舞台をどうやって組み立てるかと言ったら、音響、照明、大道具、舞台デザイナーから警備まで、ものすごい人数を集めて、動かさなくてはならない。
その一方で、ステージに立つ側の立場もわかるから、楽屋に戻った秀樹の代わりにサウンドチェックやマイクテストもやっていました。秀樹は舞台を右に左に、上手下手と走り回るから、僕も必死で走ってチェックしていました。
それもこれもすべて、ステージに立つ人がいい音で、歌いやすい環境を作るため。裏方の仕事を理解した、ということは、僕にとってものすごく良い経験でした。
森本太郎さんのターニングポイント③
「ザ・タイガース」のメンバーは、“竹馬の友”みたいなもの。解散は、青春の終焉だと感じた。その後、音楽プロデューサーとして裏方の仕事を理解したことは、僕にとってものすごく良い経験となった。
森本太郎さん Profile
森本太郎●ザ・タイガースの元メンバー
ギタリスト・作詞家・作曲家・音楽プロデューサー
1946年、京都生まれ。1967年に「ザ・タイガース」のギタリストとして『僕のマリー/こっちを向いて』でデビュー。ザ・タイガースの8枚目のシングルに収録された『青い鳥』では作詞作曲を担当し、自作の一曲として高く評価されている。解散後は、「タローとアルファベッツ」「森本タローとスーパースター」などのバンド活動やソロ活動、作詞作曲、音楽プロデュース業を精力的に展開。1981年のタイガース再結成にも参加し、現在も幅広く音楽活動を続けている。愛称は「タロー」。
森本太郎 公式サイト
撮影/橋本哲
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