「タイガースはいつも楽屋で寝てましたね」と言われた、日本一のバンドの舞台裏【79歳・森本太郎さんのターニングポイント#2】
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藤岡眞澄
グループサウンズの黄金期を牽引したザ・タイガース。その中で森本太郎さんは、仲間から厚く信頼される存在でした。当時のGSでは珍しい自作曲「青い鳥」は今も多くのファンに親しまれています。衝撃的な成功の日々と解散、音楽プロデューサーの活躍など、森本さんの人生のターニングポイントについて伺いました。第2回は、一世を風靡したタイガース時代の舞台裏。
▼第1回はコチラ▼
>>ザ・タイガース誕生秘話。「あそこで3人が出会わなければ…」【79歳・森本太郎さんのターニングポイント#1】「日本一のバンドになる!」当時5人はワクワクしていた
——憧れの「ナンバ一番」のオーディションに合格されたので、京都から大阪に出て、明月荘で合宿生活を始めたんですね。
いやいや、オーディションには落っこったんです。
ところが、ある日、僕の自宅に電話がかかってきて「ナンバ一番に出てほしい」と言われて。これは、“トラ”(エキストラの略)と言って、出演者が急に出られなくなったときの代役なんですけれど。
あわててみんなに「ファニーズがナンバ一番に出られるよ」と連絡したら、喜びましたね。たった1日だけなんだけれど。しかも、ツーバンドで、売れているバンドの前座だったんだけれど。
ところが、その1回の出演で、ファニーズのファンになってくれた人がいたんです。多分、僕らの後に出るバンドのファンだったと思うんですけれど。そこからファンが増えていった気がします。
——たった1回のチャンスを逃さなかった、ということですね。
そこから「ナンバ一番」にたくさん出られるようになって、明月荘という古いアパートで合宿することにしました。
最近、ジュリー、サリー、ピーと4人で話していて、「合宿していたとき、ご飯って何食べてたん?」と話題になったけれど、誰も覚えていない。でも、僕らお金がなかったから、ギャラが出たらみんなで“まむし”(うなぎ)を食べに行った記憶だけは一緒でした。
——そんな合宿生活の中、「日本一のバンドになる」という5人の目標が定まったんですね。
「日本一」という言葉は、多分、サリーが言い出したんだと思います。今になってみると「下手くそなバンドなのに、よくそんな法螺が吹ける」って思うけれど、当時は5人でワクワクしていましたね。
——そんな「ファニーズ」の人気を聞きつけて、スカウトが東京からやって来るようになったんですね。
1番目、2番目のスカウト話が立ち消えになって、3番目にスカウトに来てくれたのが、(内田)裕也さん。なぜか沢田に「東京に出て来ないか」と声をかけて下さって。僕らは「これが3度目の正直だ」と真剣でしたから、「東京に行きたいです」と即答しました。
ところが、裕也さんにスカウトの権限はなくて、しばらく音沙汰なし。それで、ピーが東京に話をつけに行って、渡辺プロからお偉いさんが大阪に会いに来て下さって、契約が決まったんです。
——「ファニーズ」結成からわずか1年の1966年10月のことですね。上京してプロになる、という決意を聞いたご家族の反応は?
「ナンバ一番」に出たころには、僕らはプロになるつもりで全員高校を中退していますからね。親はもう諦めていたと思います。
僕はそのまま大学に進める立命館高校に通わせてもらって、サラリーマンになると思っていたのに……ですからね。でも、反対することもなく、思い通りにさせてくれた親には感謝しています。
