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フジテレビではなくTBSのアナウンサーになっていたかも!?【笠井信輔さんのターニングポイント#1】

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藤岡眞澄

アナウンサーとして第一線を走り続けてきた笠井信輔さん。テレビ人生の中には、仕事や家族、そして病気との向き合い方など、いくつもの転機があります。何を感じて、どう行動してきたのか。人生を前に進めるヒントを伺いました。第1回は、アナウンサーという夢をつかむまでの道のり。

笠井信輔さん Profile

かさいしんすけ●フリーアナウンサー
1963年、東京都生まれ。早稲田大学を卒業後、アナウンサーとしてフジテレビに入社。「とくダネ!」など、おもに情報番組で活躍。2019年10月、フリーアナウンサーに転身。直後、ステージ4の悪性リンパ腫に罹患していることが発覚。12月より入院。ブログで闘病の様子を綴った。2020年6月に完全寛解し、その後仕事に復帰。著書に『僕はしゃべるためにここ(被災地)へ来た』(産経新聞出版)(新潮文庫)、『生きる力~引き算の縁と足し算の縁~』(KADOKAWA)など。

夢みたいな話を応援してくれる大人がいるんだ!

——フジテレビの局アナ、そしてフリーアナウンサーとして約39年のキャリアを重ねて来た笠井さんにとって、“しゃべる仕事”はまさに天職。アナウンサーを志したきっかけは何でしたか?

小さい頃からおしゃべりだったらしいんです。それも、親がびっくりするくらい。僕自身も、小学校に上がるころからテレビの世界に憧れていました。

最初に「しゃべることは楽しい」と思ったのは小学3年生のとき。当時住んでいた町田市に「ひなた村」という子どもの情操教育ための施設があるんですが、子ども祭りで僕が1日、ステージの司会を任されたんです。

そうしたら大ウケして、褒められましてね。それがうれしくて、自分にはこういうことが向いているんだと気づきました。

——まさに、三つ子の魂百まで、ですね。

それからは、小学校でも中学校でも、イベントがあれば手を挙げて司会に立候補する。クラスメートからは「また笠井君⁉」と半ばあきれられていました。

児童会長になったのも、生徒会長になったのも、マイクスタンドの前に立ってしゃべりたかったからなんです。

高校で放送委員会に入ったのも、昼休みに流す校内放送でどうしてもしゃべりたかったから。それまでディスクジョッキーは女子、と決まっていた都立狛江高校の伝統を打ち破って、僕が初のディスクジョッキー男子になりました。

——ということは、高校時代にはテレビ局のアナウンサーになりたい、と心に決めていたということですね。

担任に進路相談に行って、「アナウンサーになりたいから東京六大学に行きたい」と言ったら、「いまの学力では無理である」と。でも、「笠井はアナウンサーでも何でもいいから、テレビに出ろ」と言って下さったんです。この担任の言葉が大きかった。

案の定、浪人することにはなりましたが、僕の「しゃべることを仕事にしたい」という夢みたいな話を応援してくれる大人がいるんだということが励みになって、翌年、早稲田大学に合格できました。

高校の卒業アルバムに「僕を忘れそうになったらテレビを見てくれ、出ているから」と書いてみんなに笑われたけれど、今クラス会をやると、「笠井は本当にそうなったよな」と言われます。

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