瞳みのるさん「どんな事態になっても一生自分から離れないもの」を探し続けて【前編】
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ゆうゆう編集部
憧れの中国はセピア色の世界だった
34歳のときに日本政府と中国政府の交換留学制度に応募し、北京大学に留学。正式な教員として雇われて2年目のことだった。ところが、行ってみると思い描いていた中国とはかけ離れていた。
「まだ文革(文化大革命)の色が濃くて、モノトーンの世界。おおよそつまらない世界でした。百万の都、唐の時代は青い目のホステスまでいたという国際都市だったのに、今や埃を帯びた灰色の街というか、黄土色で何にもない。セピア色の写真みたい。そういう世界でした」
2年後に帰国し、教員に戻った瞳さんは当時の校長と反りが合わず、あることがきっかけで中国語の授業を干されてしまう。
「僕が教えたかったのは中国語だったのですが、漢文と現国と古文の担当にさせられました。中国語はなし。7年間教えることができなかった。その校長は7年間いましたから」
そんなときに駿台予備校から声がかかり、慶應高校と並行して教えることとなる。
「教えてみたらそちらのほうが楽しくて。結局、10年以上やりました。生徒への教え方は予備校で学んだような気がします」
後任として来た新たな校長は、中国留学のときに一緒だった人。
「僕のことをひいきにしてくれて。もう一度中国語の授業をできることになり、一生懸命やりました」
やがて、瞳さんは10人くらいの講師をまとめるリーダーとなり、予備校で得たノウハウを推し進めた。
「どのように板書をしたらよいか、どのように話せばよいか、どうすれば生徒たちは喜び、寝ないか、そういうノウハウを僕は予備校で学びました。それを利用して勤務評定まで作り、生徒から授業についてのアンケートも取りました」
はじめの頃は50人だった中国語の履修者が10年後には500人に増え、第二外国語で一番人気の授業となった。
「いい授業をすると人気が上がってきて、生徒もどんどん増えてきました。第二外国語は中国語の他、フランス語とドイツ語があったのですが、中国語の履修者が500人くらいに増えたのです。800人ほどの生徒の500人が中国語を選択しました」
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瞳みのるさん最新情報
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※この記事は「ゆうゆう」2017年7月号(主婦の友社)の内容をWEB掲載のため再編集しています。
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