「結局、妻の言うとおりにすると物事はうまくいく。そこが、ちょっと悔しい(笑)」【笠井信輔さんのターニングポイント#2】
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藤岡眞澄
アナウンサーとして第一線を走り続けてきた笠井信輔さん。テレビ人生の中には、仕事や家族、そして病気との向き合い方など、いくつもの転機があります。何を感じて、どう行動してきたのか。人生を前に進めるヒントを伺いました。第2回は、笠井さんが考える最大のターニングポイント!
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>>フジテレビではなくTBSのアナウンサーになっていたかも!?【笠井信輔さんのターニングポイント#1】サラリーマンとしての挫折はいろいろと味わっています
——1987年にアナウンサーとしてフジテレビに入社。2年目には午後の情報ワイド番組『TIME3』のアシスタント司会者に大抜擢されるなど、早くから活躍の場を広げていきますね。
いや、サラリーマンとしての挫折はいろいろと味わっていますよ。
たとえば20代後半、毎週土曜日に情報番組のキャスターを務めていたんです。もともとワイドショー志望でしたし、リポーターからキャスターに登用、という形でありがたかったんですが、視聴率が伸び悩んでいるから笠井を下ろせという話になった。
理由が視聴率なら首斬りも仕方ない、と思っていたら、プロデューサーから告げられたのは「リポーターに戻れ」という指示。しかも、一期下の後輩がキャスターになる、という。
でも、この人事を断れば、“日勤”といって、担当番組がなくなることを意味するんです。アナウンス部長からも「折り合いをつけろ」と説得されました。
ところが、当時、結婚したばかりの妻(茅原ますみさん/元テレビ東京社員)の考えは違ったんです。「やりたくない仕事が来たんなら蹴っちゃいなさいよ。一生懸命仕事に向き合っていれば、次の仕事はあるわよ」でした。
——同業者でもある奥さまのアドバイス、とても潔いですね。
結果、この辞令を拒否したので担当していたワイドショーは、全部降板になりました。情報番組には出られない、ということです。
ところが、露木茂さんがキャスターを務めていた『FNNスーパータイム』という報道番組から、「リポーターをやらないか」と声がかかったんです。部屋でくすぶっているくらいなら、現場に出ろ、と。
そのころは、報道の現場にアナウンサーがリポーターとして立つ、マイクを持って中継するというのが珍しい時代。1996年12月に「在ペルー日本大使公邸占拠事件」が起きたときは、防弾チョッキを着ながら銃撃戦のレポートをしていました。
