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【どうする家康】伊賀越えの前、家康は信長のあとを追うつもりだった?「知恩院で、追腹する」という発言

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鷹橋 忍

ルート① 桜峠越え ドラマの石川数正が通った? 

6月2日、堺を出た家康一行は、山城国の宇治田原(京都府綴喜郡)に入りました。

翌3日は南近江路を経て、きたろうさんが演じた多羅尾光俊の設楽小川城(滋賀県甲賀市)に宿泊しました。

ご紹介する三つの伊賀越えの起点は、いずれもこの設楽小川城となります。

『石川忠総留書』によれば、6月4日は、小川城からは伊賀国境の「桜峠」を越えて、伊賀国の丸柱、石川、川合、柘植(いずれも三重県伊賀市)を通り、伊勢国の加太、関、亀山(いずれも三重県亀山市)を経て、四日市(三重県四日市市)に到達しています。

さらに那古(長太 三重県鈴鹿市)まで進んで船に乗り、三河国の大浜(愛知県碧南市)を経て、岡崎城にたどり着いたといいます。

『家忠日記』(家康の一族・深溝松平家の四代目当主の松平家忠の日記)の記述から、6月4日深夜、もしくは5日未明の到着と考えられています(藤田達生「『神君伊賀越え』再考」)。

ルート② 御斎峠越え

ルート②は、小川城から多羅尾方面へと進み、御斎峠を越えて、ルート①にある伊賀国の丸柱に出る「御斎峠越え」です(『徳川実紀』)。丸柱以降は、ルート①と同じ行程です。

ドラマの家康一行は、伊賀盆地を一望する御斎峠を通っていました。

このルートには「家康が休息した」という伝説の残る「多羅尾砦」もあります。

ですが、藤田達生氏は、遠回りであり、惣国一揆の政庁があった伊賀上野(三重県伊賀市)に近づくため、家康一行は、このルートを選ばなかったと判断しています(藤田達生「『神君伊賀越え』再考」)。

ルート③ 甲賀越え

もう一つのルートとして、藤田達生氏は、小川城から水口(滋賀県甲賀市)方面へ進み、油日(甲賀市)を経て、ルート①にもある伊賀国の柘植に出る「甲賀越え」を提示しています。

ドラマでは、酒井忠次が進んだルートと思われます。
伊賀越えではなく、甲賀越えだったのでしょうか。

本当は、それほど困難ではなかった?

藤田達生氏は、どのルートだったとしても、家康一行は半日に満たない行程で、伊賀路を通り抜けていることから、「生涯の困難の第一」というほど困難だったとは思われないとしています(三重大学国際忍者研究センター『忍者学研究』第五章 藤田達生「中世の伊賀者研究より」)。

いずれにせよ、家康は無事に三河に帰還できました。

次に待っているのは、ムロツヨシさん演じる秀吉との対決です。

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