【どうする家康】本多忠勝(山田裕貴)が戦場でかすり傷ひとつ負わなかったのは本当か
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鷹橋 忍
榊原康政
はじめは酒井忠尚の小姓だった?
榊原康政は、三河国上野(愛知県豊田市)で生まれました。
もともと榊原家の苗字の地は、伊勢国壱志郡榊原村(三重県)だったとされます。
榊原康政の祖父・榊原清長が三河国に移住し、飯田基祐さんが演じた松平広忠(家康の父)に仕えたといいます。
康政が生まれた家は榊原家の庶流で、松平家の重臣・酒井忠尚(酒井忠次の兄とされる)の麾下にあったとみられています(小川雄・柴裕之『図説 徳川家康と家臣団 平和の礎を築いた稀代の〝天下人〟』)。
康政もはじめは、酒井忠尚の小姓だったといいます。
家康との出会い
家康との出会いは諸説ありますが、康政が13歳のときのことだといわれます。
永禄3年(1560)5月19日、大高城にあった家康は、桶狭間の戦いで野村萬斎さんが演じた今川義元の敗死を知ると、その日の夜に大高城を出て、翌5月20日に三河国の大樹寺(岡崎市)に入りました。
そのとき康政は、大樹寺で勉学に励んでいました。康政は家康に拝謁し、仕えるようになったとみられています。
康政の妻は誰?
康政の正室は、徳川の重臣・大須賀康高の娘です。
婚姻の時期は不明ですが、武田家滅亡の前年の天正9年(1581)に、長子の榊原忠政が誕生しています。
花房氏という系譜が不明な側室もおり、花房氏が産んだ榊原康勝が家督を継いでいます。
批判した秀吉から褒められた?
前回のドラマでも描かれた天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いにおいて、康政は秀吉軍の士気を落とすため、秀吉方の諸将に檄文を送ったという逸話があります。
その檄文の内容は「秀吉は信長の恩を忘れて、信長子の織田信雄と兵を構えることは、悪虐非道も甚だしい。秀吉に従う者は、みな義を知らない者だ」と、秀吉を強く批判したものでした。
これを知った秀吉は激怒し、「康政を討ち取った者には、望みのままの褒美を与える」と叫んだといいます。
ですが、合戦の終結後、秀吉は康政に「檄文を見たときは首を獲ってやろうと思ったが、今では主君への忠義は感服するばかりだ」と労ったと伝えられます。
逸話の真偽はともかく、のちに康政は秀吉の命で、上野館林(館林市)に十万石を領有することになります。