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【どうする家康】まっすぐ過ぎて孤立を深めていく石田三成(中村七之助)は、蟄居の当時40歳。家康は58歳

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鷹橋 忍

【どうする家康】まっすぐ過ぎて孤立を深めていく石田三成(中村七之助)は、蟄居の当時40歳。家康は58歳

「どうする家康」第40回より(C)NHK

徳川家康というと、どういうイメージをもっていますか? 2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、どんな家康が描かれるのでしょうか。戦国武将や城、水軍などに詳しい作家 鷹橋 忍さんに、知られざる徳川家康の姿や時代背景などについてひも解いていただきましょう。

★前回はこちら★

【どうする家康】徳川四天王の一人 酒井忠次(大森南朋)の海老すくいは、褒美を授かるほど見事なものだった?

大河ドラマ『どうする家康』第40回「天下人家康」では、ついに、家康と中村七之助さんが演じる石田三成が袂を分かち、三成は佐和山城(滋賀県彦根市)に蟄居することになってしまいました。

秀吉亡き後の豊臣氏を懸命に支えようとするも、まっすぐ過ぎて、孤立を深めていく三成の姿に、胸を痛めた方も多いのではないでしょうか。

そこで今回は、石田三成を取り上げたいと思います。

家康より18歳年少

石田三成は永禄3年(1560)に、近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれました。幼名を、「佐吉」といいます。

ドラマでも触れられていましたが、三成が生まれた永禄3年は、桶狭間の戦いが勃発した年です。天文11年(1542)生まれの家康は、このとき数えで19歳でした。

つまり三成は、家康より18歳も年少ということになります。

ちなみに、第40回「天下人家康」で、三成が佐和山城に蟄居させられた慶長4年(1599)当時、家康は58歳、三成は40歳です。

三成の家族は?

三成の父親は石田正継といい、石田郷の土豪です。
正継は、北近江(滋賀県長浜市・米原市域)の戦国大名・浅井氏に仕えていたと推定されています(太田浩司・森岡榮一「Ⅰ 石田三成の生涯―その出自と業績―」 谷徹也編著『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』所収)。

三成は次男といわれ、石田正澄という兄がいます。

母の瑞岳院は、近江国伊香郡杉野の出身で(太田浩司・森岡榮一「Ⅰ 石田三成の生涯―その出自と業績―」)、文禄3年(1594)9月3日に亡くなったとされます。

妻は、宇多頼忠の娘と伝わります。宇多頼忠は、秀吉に仕えて、大和に一万石三千石を領したといいます(徳富猪一郎『近世日本国民史』第11巻)

秀吉との出会いは?

三成と秀吉の出会いに関しては、ドラマの紀行でも触れられた「三杯の茶(三献茶)」という逸話が伝わっています。
有名な話なので、ご存じの方も多いかと思いますが、簡単にご紹介しましょう。

江戸時代前期の儒学者・熊沢淡庵が刊行した『武将感状記』(『砕玉話』)によれば、三成はある寺の童子でした。
その寺に、一日、放鷹(鷹狩り)に出ていて喉が渇いていた秀吉が訪れ、茶を所望しました。

すると、三成は最初の一杯は、ぬるい茶を大きな茶碗に七~八分淹れて出し、二杯目は少し熱い茶を茶碗に半分に足らないほど、三杯目は熱くたてた茶を小茶碗で出しました。

秀吉は三成に「気のはたらき」を感じて近侍とし、次第に取り立て「奉公職」を授けたといいます。

この逸話がどこまで真実かはわかりませんが、いずれにせよ、三成は秀吉の家臣となりました。時期は諸説ありますが、天正2年(1574)が有力とされます。三成が15歳のときのことです。

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