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はるな愛さん「体と心の性の不一致、それが自分の個性だと気づいたときに人生が変わりました」【山あり谷あり私の人生】

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ゆうゆう編集部

性別適合手術さえ受ければ悩みは消えると信じていた

訪ねてみると、そのきらびやかなステージにたちまち魅了されることに。「ああこれだ!」と思ったはるなさんは、そこで働くことに決めた。「やっと居場所を見つけた」と思えたら、不思議といじめられることも減っていった。何かが自分の中に芽生えたような気持ちになった。

「でも一方で、ますます自分の満たされないところが見えてきたんです。『男性に生まれたこと』、それが一番の悩みであることが、一層はっきりしてしまいました。そこで19歳のとき、性別適合手術を受けることに。手術を受けて女性になれば、すべての悩みがなくなると思ったんです。実際、手術後は夢のようで、『世界がこんなに彩り豊かに見えるんや』とすごくうれしかったですね」

しかし、夢のような時間は長くは続かず、迷いは再び深くなった。

「私はずっと、性別のことさえ解消すれば、すべてが楽になると思っていました。でも本当の原因は、これまで正直に人と関わってこなかった自分の生き方にあると気づいたんです。人間関係、お金、生活の問題、すべて性別のせいにしてきましたが、そうではなかった。悩みや不安の原因は、親にも友達にも本当のことを言えなかった自分にある。私がちゃんと正直に人と関わってこなかったせいだと改めて思い知らされました。じゃあ私の中の絶対にぶれない部分、本当に望んでいるものは何かと考えたら、芸能界に入りたい、タレントになりたいという思いだったんです。特に歌が好きで、アイドルになりたい、歌手になりたいという思いが小さい頃からあった。その気持ちとまっすぐに向き合わないと駄目だと思いました」

ニューハーフとしてショーパブで活躍

小さい頃から歌が大好き。ショーパブの華やかなステージに立ち始めると、「愛ちゃん」とかわいがられるように。芸能人という夢に近づくための、大切な時間だった。

「しゃあないやん」が生んだ 運命を変えた苦肉の策

1990年代半ば、ニューハーフがブームのようになったこともあり、上岡龍太郎さん司会の人気番組などに呼ばれるようになる。露出が増え、芸能人になれた気がした一方、扱われ方はあくまでも「キワモノ」。ブームの終焉とともに、テレビ出演も減っていった。

そんなときタレントの飯島愛さんに声をかけられ、98年に上京を決意。「女の子として」やり直すには、過去を知る人がほとんどいない東京でリスタートする、このチャンスしかないと思ってのことだった。しかし、なかなか「女の子」としては扱われず、鳴かず飛ばずの毎日だった。

それでも食べていかなければならない。そこでチャレンジしたのが、飲食店経営だった。資金40万円で世田谷・三軒茶屋の物件を居抜きで借り、7人入れば満席という、小さなバーをオープン。しかし、これもすぐにはうまくいかなかった。

「女の子が経営していて面白いな、楽しいなという時間を過ごせる場所にしたかったんですけど、三軒茶屋にはかわいくて楽しい女の子がいるお店なんて山ほどある。私一人でやっている薄暗いお店の扉なんて、誰も開けてくれなかったんです」

お客さんは来ない、売り上げは上がらない、だが家賃は払わねばならない。どんどん追い詰められていく状況で、『何かしないと!』の思いに駆られたはるなさんは、大阪時代を振り返った。みんなが「愛ちゃん、愛ちゃん」と言ってお店に足を運んでくれたのも、テレビに何度も呼んでもらえたのも、私がニューハーフだったからだ。自分の中で一番認めたくないことではあったものの、それは紛れもない事実だった。

「『しゃあないやん』という諦めと切羽詰まった思いから、もう一度、ニューハーフのはるな愛としてお店に立とうと思ったんです。それが三軒茶屋では珍しいお店だと評判を呼び、いろいろな人が遊びに来てくれるように。満席のときは『近くで時間つぶしているから空いたら電話ちょうだい』と言う人も出るほどで、毎日売り上げを数えるのが楽しくて。当時まだ世に出ていなかった森三中や椿鬼奴ちゃんとかもよく来てくれて、皆で夢を語り合いました」

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