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【66歳・安藤優子さん】私を溺愛してくれた母が亡くなり10年。喪失感とどう向き合ったのか?

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ゆうゆう編集部

ときに厳しくときに優しく、私たちの行く末を見守り、道標となってくれた母。いつまでも元気でいてほしいと願っても、いつかは別れの日がやってきます。そんな「母ロス」とどのように向き合い、乗り越えていったのか、安藤優子さんの体験談を伺いました。

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PROFILE
安藤優子さん キャスター

あんどう・ゆうこ●1958年千葉県生まれ。
上智大学卒業後、テレビ報道番組でレポーターやキャスターを務め、国内外の歴史的場面を取材し報道。
2000年からフジテレビで「FNNスーパーニュース」、15年から「直撃LIVEグッディ!」で総合司会を務めた。
現在「newsランナー」(関西テレビ)、「起業家たちの挑戦ストーリー」(TOKYO MX)に出演中。

明るくて社交的。自慢の母でした

数々の報道番組でキャスターを務め、知的で落ち着いた印象が強い安藤優子さん。意外にも、幼い頃は「いつも母にくっついている甘えん坊でした」と笑顔で話す。

「3人きょうだいで、一番上の姉とは9歳離れた末っ子。体が小さくて弱かったこともあり、母に溺愛されて育ちましたね」

母・みどりさんは「とにかく明るくて社交的」な人だったという。「よく人を招いて手料理を振る舞っていました。料理も裁縫もプロ級。私のバレエの衣装も母の手作り。幼稚園のお弁当も盛りつけがきれいでね。自慢の母でした」

明るく好奇心が旺盛で、人が大好きな母でした

「人が大好きで社交的。知らない世界を見たい、行きたい、と好奇心旺盛な母でした。そこは私が受け継いでいますね」

身につけた教育はとられない―。物より教育を与えるのが母の子育ての信条でした

みどりさんは教育熱心で、厳しい母でもあった。

「『たとえ泥棒が入っても、教育だけはとられない』が口ぐせ。つまり知識や技能は自分の財産になり、とられることはない、と。物より教育を与えるのが、母の子育ての信条でした。私は幼い頃からクラシックバレエ、ピアノ、絵画、書道を習わされました。でもお稽古が嫌い(笑)。ピアノレッスンに行くふりをしておばあちゃまの家に隠れたことも。もちろん母にバレて大目玉をくらいました」

母に叱られた記憶の中で、今でも印象に残っている言葉がある。

「幼い頃のある休日。父はゴルフに、姉と兄はそれぞれ友達と出かけて私だけ家に取り残され、『つまんない、つまんない』と駄々をこねていたんです。母にどこか遊びに連れていってほしいわけですよ。でも母はやらなきゃいけない家事が山のようにある。それでカーッとなったんでしょうね。『つまんないなら、自分でつまるようにしなさい!』と怒られて、私は庭に追い出されました。『つまるようにしなさい』って、日本語としてヘン(笑)。でも意味は何となく伝わってきますよね」

つまらないなら、自分で楽しみを見つけなさい、甘えるな、と。

「母は私を猫可愛がりする半面、自立を促すところがありましたね。私がキャスターになってからも、そう。戦闘地域などに赴き、休む間もなく働いていた若い頃。へとへとになって実家に帰ったとき、私が『もう仕事辞める』とグチをこぼしたんです。すると母は『あなたに仕事をしてくれと頼んだ覚えはない。どうぞお辞めください』と。親なら優しい言葉の一つもかけてよ、と私は思うんですけど……言われてみれば、確かに自分が好きで仕事しているんだから、やるしかないなと一件落着(笑)。きっと母は私の性格を読んで、逆説的にお尻を叩いたんでしょうね」

可愛がられて育てられ

習い事の中で唯一好きだったのがバレエ。「発表会を見に来てくださった方に、母は私の名が入った記念品をお渡ししていました。そういう手間を惜しまず、丁寧な人でした」

▼後編に続きます▼

取材・文/村瀬素子 

※この記事は「ゆうゆう」2025年5月号(主婦の友社)の内容をWEB掲載のために再編集しています。

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