母は中村メイコ【神津はづきさん】眠るように逝った母。 悲しみより 「ママ、よかったね」という気持ち
ときに厳しくときに優しく、私たちの行く末を見守り、道標となってくれた母。いつまでも元気でいてほしいと願っても、いつかは別れの日がやってきます。そんな「母ロス」とどのように向き合い、乗り越えていったのか、母・中村メイコさんを見送った神津はづきさんの体験談を伺いました。
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神津はづきさん 刺繍作家、女優
こうづ・はづき●1962年東京都生まれ。
83年に女優デビュー。テレビ、映画、舞台などで活躍。
92年に俳優の杉本哲太さんと結婚。
近年は趣味が高じて刺繍作家としても活動、月2回、刺繍教室を開く。
大人女性のためのホームウェアブランド「Petit Tailor R-60」を展開中。
『ママはいつもつけまつげ 母・中村メイコとドタバタ喜劇』
神津はづき/著 小学館 1700円+税
娘が綴る母・中村メイコ。「これを書いたことで、母との思い出や母への気持ちを整理できた」とはづきさん。喜劇を地でいく母と家族のエピソードが、面白くも、温かい。好評につき、25年4月現在、4刷に。
うちのママはヘン! 普通のお母さんと違う
神津はづきさんの母は、言わずと知れた中村メイコさん。2歳で映画デビューし、七色の声を操る芸達者な喜劇女優、声優、司会業とマルチに活躍し、89歳で亡くなる直前までトーク番組に出演していた。読者世代にとっては物心ついた頃からテレビで見ていたメイコさん。どんな母だったのか?
「うちのママはヘン。他のお母さんと明らかに違うと、幼い頃から思っていました。授業参観に、舞台化粧の白塗りの顔のまま頭にスカーフを巻いてキョンシーみたいな姿で教室に入ってきたり。参観中に、先生が『この問題、わかる人?』と質問したら、母が『はいっ』と手を挙げたことも。ウケ狙いではなく、自然にそうしているんです。母は子役時代、ほとんど学校に行けず、学校というものがよくわかっていなかったんです」
全身「赤」でカッコよく決めた母
パパっ子のはづきさんは、父(作曲家・神津善行さん)に、「ママはヘン」と訴えたことがあった。すると父は「そうだよ、ママはヘンなんだよ。普通のことをやらせたら、ややこしいことになるから、諦めようね」と、はづきさんに言い聞かせたという。
ずっと芸能の世界にいたメイコさんは、普通の社会を知らないまま親になった。「母なりに母親らしくあろうと、母親を演じていた」と、はづきさんは言う。
「母は仕事で忙しかったから、料理以外の家事は祖母やお手伝いさんに任せていたので、できないことがたくさんあるんです。でも役者だから、できてるふうに演じることはできる。私が子どもの頃、ムームーが着たいと言ったら、母が自分のムームーの丈を詰めて私用にリメイクしてくれました。喜んで着たら足首がチクチクする。母は裁縫ができないので、裾をホチキスで留めていたんです(笑)」
唯一、母親らしくやり遂げたのが、子どものお弁当作りだった。
「たとえ夜中の3時に帰っても、毎朝5時45分に起きて作っていました。二日酔いのときは『気持ち悪いから、あっさりしたおかずにしといたわ』って。いや、私は気持ち悪くないし(笑)」
芸達者ゆえ、家でも名演を。
「私に部屋を片づけなさいと言ったとき、突然、気っ風のいい山岡久乃調で『何やってんだよ! 服はこうたたみゃあいいだけだよ』って(笑)。あるときは三田佳子調になったり。母にすれば、女優さんやってるほうが自然なんでしょうね。でもそれにつき合わされる娘は、疲れます。何でうちの母はこんなに手がかかってめんどくさいんだろうと思っていました」
家族の時間も全力で楽しむ母
あまり怒られなかったけれど「人の生き方」には厳しい母でした
母親としてはツッコミどころ満載のメイコさんだが、「人としてのあり方には厳しかった」という。
「『急いでいるときでも立ち止まって挨拶しなさい』『相手の目を見て話しなさい』と、口うるさく言われました。私が芸能界の仕事を始めることになったときは、『一生懸命という言葉は使いなさんなよ、みっともないから』と。一生懸命やるのは当たり前のこと。口に出すことではない、と。確かに母の生き方は、そうでした」
パパの腕の中で天に。ママ、よかったね
80歳を超えても元気に仕事をしていたメイコさんだが、85歳のとき大腿骨を骨折する。
「父の演奏会を観に行きロビーで転んじゃって。入院中、母はリハビリに励んでいたんですが、バーにつかまって辛そうに歩く姿を見て、父が『かわいそう』だと。退院後は『僕が車椅子を押してあげるから辛いことはしなくていい』と言うので、母はリハビリをしなくなって。それからは父が家事をやっていました。父は料理のレパートリーが少ないので、姉や私が作ったものを届けたけれど、2人で楽しそうに暮らしていました」
2023年に亡くなるまでの時間は「父と母の蜜月」だったという。
大みそか、メイコさんは、紅白歌合戦を見ていて、「ちょっと息がへんなの」と夫に言い、背中をさすってもらいながら天に昇った。
「苦しむことなく眠るように逝ったから、きれいな顔でした。悲しみより、ママ、よかったねという気持ちのほうが先だったかも」
死なないかもしれないと思った母も、最期は幸せな亡くなり方をしたと思います
「でも、どちらかというと、死なないかもしれないタイプの母だから(笑)。私はむしろ長生きして、管につながれたり痛かったり、好きなお酒が飲めなかったりしたらかわいそうだなと心配していたんです。母は幸せな逝き方をした。お見事、と拍手を送りたいくらい」
ただ、ちょっと後悔もよぎる。
「亡くなる数カ月前、笑福亭鶴瓶さんのトーク番組に母が呼ばれたんです。母は記憶力が衰えて何度も同じ話をすることがあり、私は心配だったので、旧知の鶴瓶さんに『母はボケボケです』と伝えておいたんです。そしたら収録後、鶴瓶さんから電話があり、『何がボケボケや。めっちゃ面白かったで』と。放送を見て私もびっくりしました。画面の中の母はしっかりしていて、面白い! でも逆にちょっと母がかわいそうになって。本当は母はできるのに、何もしなくてもいい状況を父や私たちがつくってしまった。もし骨折しなかったら、母は90歳過ぎても元気に活躍できたかもしれない。でもそうだったら父との蜜月は得られなかったかもしれないですね」
2022年5月、母88歳の誕生日に父と
亡くなって1年余り。
「この世に母はいない、会えないという喪失感はあります。でも死んでからのほうが近くにいる感じが。気がつくと、遺影に話しかけてたりします」
亡くなったことで、「私にとって絶対的母親になった」とも。
「私も子を育てた母だからわかるんですけど、みんな、子どものためにいい母親になろうと頑張りすぎちゃうんですよね。別に母親は立派じゃなくていいんですよ。うちの母は『私があなたの母だけど、何か?』っていう感じで、中村メイコのまんまの母だった。それでも私たちはまっとうに育ったし、楽しかった。母を無理に普通の母にしようとしなかった父に、そして母に、ありがとう、ですね」
取材・文/村瀬素子 撮影/廣江雅美
※この記事は「ゆうゆう」2025年5月号(主婦の友社)の内容をWEB掲載のために再編集しています。
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