乳がん告知。それでも芝居は続けたい…かつらをかぶり、ビニール袋持参で撮影現場へ【赤間麻里子さんのターニングポイント#3】
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佐藤望美
TikTokで公開されたショートドラマをきっかけに遅咲きのブレイクを果たした女優・赤間麻里子さん。朝ドラをはじめ、活躍の場を大きく広げています。第3回は、せっかくつかんだ映画初出演の後に発覚した乳がんの闘病生活について話を伺いました。
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≫≫若者に混じってオバハンが稽古に奮闘!?「40代、50代は人生をリスタートするのに最適だと思います」【赤間麻里子さんのターニングポイント#2】
PROFILE
あかま まりこ●1970年8月26日生まれ、神奈川県出身。女優。主な出演作にドラマKTV『アンメット』、NHK連続テレビ小説『虎に翼』、TBS『海に眠るダイヤモンド』、映画『わが母の記』『ヘルドッグス』など。クリエイター集団【こねこフィルム】の作品「年齢確認」では、コンビニを舞台に年齢を確認され、妙齢女性をコミカルに演じ多くのファンを魅了、そのシリーズの総再生回数は2億回を超える。映画『うぉっしゅ』が5/2より新宿ピカデリー他全国公開、『仏師』2027年春公開予定。
ようやく映画出演が決まったのに…。胸のしこりはステージ3の乳がんだった
−がんはどのような経緯で発覚したのですか?
42になる歳のことでした。たまたま友人がフランス旅行土産にと胸にハリが出るというクリームをくれて、胸に塗っていたら「あれ、このボコボコは普通じゃないぞ」と思ったんです。本当に、パチンコ玉みたいにコロコロしていて。今でも友人には感謝しています。それがなかったら、家事や子育てに忙しくて絶対に自分の体の変化を見逃していたと思います。
翌日行った病院の検査結果でがん告知を受けました。そのときはがん宣告イコール死だと思っていたから、帰りの電車の中では涙が止まらなくて……。「あぁ、死ぬんだ。私の人生、もう終わっちゃうんだ。成長を見届けられないで、子どもたちに申し訳ない」と思いましたね。体力には自信があったし、まさか40そこらで自分ががんになるなんて。
−ご家族には、病気のことをすぐ伝えたのでしょうか?
夫にはすぐ伝えました。私の病気に対してもショックだったとは思いますが「もしかしたら俺ひとりで3人を育てる事になるかも」という不安があったと思います。長男は当時小学3年生。伝えた次の日に、学校の図書館で「がんの秘密」という本を借りてきて「これで勉強したらいいよ」って。「ありがとうね、お兄ちゃんだね」と言ってまた泣きました。
何も知らないまま手術はできない…。「先生、3ヵ月だけ時間をください」
−すぐに手術されたのでしょうか。
先生からはすぐに手術を勧められましたが、「3ヵ月だけ時間をください」と言って自分なりにがんについて勉強を始めました。がん告知されたけれど、どこも痛くも痒くもない。通常と全く変わりなかったんです。普通に食事もできるし、「こんなに元気なのに、すぐ手術?」という思いが強くて。それに、多分私はすごく怖がりなんです。乳がんについて何も知らないし、先生とコミュニケーションを取らないまま大事な命を預けられないよねと思って。「そんなこと言ってる間に進行するからダメだよ」と言われたのですが、納得がいかないから決められていたオペ日もキャンセル。その3ヵ月間でがんや自分の体質について猛勉強しました。
血液や細胞、最新治療、抗がん剤のこと。本を読んだり、講演会に行ったりしてノートにまとめていましたね。全摘出はどうしてもイヤで。胸元がえぐれて衣装が着られなくなるし、お風呂に入ったときに子どもがびっくりするだろうなという思いがありました。部分摘出を選びましたが、手術ではがん細胞が取りきれなかった可能性もあったので、抗がん剤と放射線治療をマックスの回数やることになりました。
全身の痛み、吐き気、脱毛……。抗がん剤治療はもう二度とやりたくない
−抗がん剤や放射線治療はどのような内容だったのでしょうか。
放射線治療は疲労感が出るくらいで何ともありませんでした。でも抗がん剤はもう二度とやりたくないほど、私にとっては辛い治療でした。とにかく全身が痛い。あごの先から目のくぼみ、つま先まで、あらゆる骨がきしむ。虫歯みたいな感じです。頭が痛くなったと思ったら、痛い部分の髪の毛だけゴソッと抜け落ちる。吐き気ももちろんありました。同じ病気の友達は吐き気もなく、髪も抜けずだったので、本当に副作用は人それぞれですが、私は体質的にダメージが強かったのだと思います。
−その間、お仕事はされていたんですか?
部分的に髪が抜けてしまうのと、抜けるときが一番痛いので全部剃ってしまいました。常にフルウィッグを利用していましたね。撮影日程と痛みのピークがぶつからならないよう、先生方に相談して治療のスケジュールを調整してもらって。現場では監督、プロデューサーとヘアメイクにだけ治療のことを伝えていました。気持ち悪くなったときのためにビニール袋は常に持参。でも緊張しているし、気が紛れるせいか案外大丈夫でした。
つらい治療を乗り越えられたのは、「演じたい」という思いが強くあったから
そんな状態でも、「仕事ができる」という状況は本当にありがたかった。がん治療中ですが大丈夫ですかとあらかじめお伝えした上で、「それでもぜひ」と言っていただけて、すごく前向きな気持ちになれました。余計な気を使わせたくないとか、体の心配とか、もちろん思うところはいろいろありましたが、何よりも私自身に「演じたい」という気持ちが強くあったのだと思います。2年前にオペから10年経ち一区切りとなり、オペした病院への通院生活から卒業。今後は近くのクリニックで定期検診。ということになりました。
−治療中、心がけていたことはあったのでしょうか。
当初は同じ状況の方のブログを見ていろいろ調べて「私もこういう経過を辿るんですよね」と先生にしつこく尋ねたりしていました。でも先生は「人の情報は見なくていい」と。あなたみたいに調べまくって、ネガティブな情報だけにフォーカスしてしまうのは良くないから。自分の体調だけに集中してくださいね。と。
あと、病院から治療の卒業証書をもらったときに言われた言葉は今も心に残っています。「再発するかしないかは運みたいなもの。気にしすぎないで、日常ではがんのことは忘れて。好きなものをバランスよく食べて、よく歩くこと」だと。ふくらはぎは血液を心臓に戻すポンプ作用があるから、血をきれいにするためによく歩きなさいと言われました。
いつか再発するかもしれないとは思っているけれど、そのときには日進月歩で今よりきっといい薬が出ているはず。もし再発しても、それまでに「やり切った」という思いが自分の中にあれば後悔することはないんじゃないかと思います。
赤間麻里子さんのターニングポイント③
「乳がんの発覚は青天の霹靂。でも自分の運命を人任せにせず、徹底的に勉強してから手術を受けました。抗がん剤治療はつらかったけれど、演じたいという一心で乗り越えられたと思います」
撮影/吉田勇生(TRON) ヘア&メイク/阿部美咲(Eulysses) 文/佐藤望美
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