人気ブランディングスタイリスト【あやみん先生】介護、看取り、離婚……暗闇の20年を経て「今が一番楽しい」
自分のことを考える時間はまったくなくて
「当時、夫には家庭外に若い女性の影があり、めったに帰宅することはなく別居状態。娘と義母の3人の生活で、『他人軸で生きていた』日々でしたね」とあやみん先生は振り返る。
「毎朝5時前に起きて、同居する義母のために食事を朝、昼、晩の3食分作ってから、パートに出勤。慣れない事務職は肌に合わず、へとへとで帰宅すると娘の塾の送り迎えや、義母の世話。義母が亡くなるまでの7年間は、自分のことを考えられる時間は1日に10分もなかったと思います。むしろ、自分の心にふたをして『何も感じないようにしていた』というのが正解かもしれません」
離婚を突きつけられたのがきっかけで奮起
あやみん先生が50歳のとき、義母と実父が相次いで亡くなる。憔悴する中、実父の葬儀で久しぶりに対面した夫から『離婚してほしい』とまさかの申し出。
「青天の霹靂でした。夫は家にこそ寄りつきませんでしたが、介護のことなどで連絡はとれており、『いつか私の元に帰ってくる』と信じていましたから」
離婚を受け入れた同時期、あやみん先生は「リセットしたい」と販売員の仕事も辞めた。残された道は少なかったが、それでも働かなければ……と、一縷の望みにかけて独立の道を選ぶ。
「前向きな独立ではありませんでした。だけど再就職したくても、資格もキャリアもないんですから(笑)。ただ『夫を見返してやりたい』という気持ちだけはありました。それが一介の主婦だった私を焚きつけた原動力だったのかもしれません」
家事を手放したら自分時間が増えた
残りの人生は自分軸で生きると決意
独立したとはいえ、当然仕事はゼロ、売り上げもゼロ。「それでもお金はないけど時間はある」という発想で、ビジネス講座やSNSの運用講座などにせっせと足を運び、知識を習得。パーソナルカラーなどファッションに関する資格も次々と取得した。
「これまでずっと環境や他人のせいにして生きてきた私でしたが、看取りが終わり、娘が手を離れ、離婚をしたときに、それでも私の人生は続く、ということにようやく気がつきました。それでこれからは『自分軸で生きる』と決めたのです。失うものは何もないんだから、いいと思うことは全部やりました」