【虎に翼】再婚の夫はすらりとした英国紳士ふう。星航一(岡田将生)のモデルとされる三淵乾太郎が、酒が入ると熱唱したのは?
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鷹橋 忍
再婚のきっかけは?
ドラマの寅子と同じように、嘉子も乾太郎の父・三淵忠彦の著作『日常生活と民法』が昭和25年(1950)に再刊されるにあたり(初版は大正15年)、その改訂作業を手伝っています。
ですが、ドラマと違い、この時に嘉子と一緒に手伝ったのは、乾太郎ではなく、当時の最高裁判所事務局長・関根小郷でした。
清永聡『三淵嘉子と家庭裁判所』によれば、三淵忠彦は昭和25年7月14日に亡くなり、嘉子はアメリカ滞在中に、その死を知りました。
嘉子は帰国後、すぐに神奈川県小田原にある故・忠彦の家を訪ねました。
これがきっかけとなって、忠彦の家との交流が深まり、忠彦の妻・三淵静にも気に入られたといいます。
乾太郎と嘉子の面識が深まったのも、この頃ではないかと推測されています。
総力戦研究所の研究生に選抜される
ドラマの星航一は、戦時中、総力戦研究所のメンバーの一員であったことを、告白しました。
総力戦研究所は、昭和15年(1940)9月30日、勅令第六四八号により設置された、内閣総理大臣直轄の研究所です。
国家総力戦に関する調査・研究などのほか、ドラマでも言及された戦争の机上演習(シミュレーション)も行なわれていたといいます(森松俊夫著『総力戦研究所』)。
総力戦研究所には、太平洋戦争に備え、官民各層から若手エリートが集められました。
当時、東京民事地方裁判所判事であった乾太郎も、司法部を代表し、第一期生に選抜されています。
この時、乾太郎は模擬内閣において、司法大臣と法制局長官(兼任)を担っていました。
模擬内閣は昭和16年(1641)夏に行なわれたアメリカとの戦争のシミュレーションで、「日本敗戦」の結論にたどり着いています。
総力戦研究所は昭和20年(1945)に廃止されますが、乾太郎は戦後、この経歴について何も語っていないといいます(清永聡『三淵嘉子と家庭裁判所』)。
英国風の上品な紳士だった?
最後に、三淵乾太郎の人となりをご紹介しましょう。
乾太郎と前妻の子・三淵力は、父を「頑固一徹」と称していますが(三淵嘉子さんの追想文集刊行会編『追憶のひと三淵嘉子』所収 三淵力「婦道記」)、すらりとして上品な、英国風の紳士だったといわれます。
外国の文学や芸術に詳しく、また、お酒が入るとテンションが高くなり、酒席ではよく、ドイツ語でシューベルトの歌曲『魔王』を熱唱したといいます(青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』)。
ドラマで、そんなハイテンションの星航一が観られるでしょうか。
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