【どうする家康】家康は二発の銃弾を受ける。家康を命懸けで守った勇者、長吉とは
公開日
更新日
鷹橋 忍
家康も銃撃された?
一揆勢を裏切り、主君を守るために立ち上がった土屋長吉重治ですが、残念ながら戦死してしまいました。
ですが、彼の忠義は家康に届きました。
家康は戦が終わると、家臣に命じて、重治の遺体を探し出しました。
そして、亡骸に自ら手をかけて、その死を惜しみ、嘆きました。
さらに遺体を上和田に葬り、手厚い追善供養を行なったといいます。
なお、家康はこの日、二発の銃弾を受けたようですが、鎧が堅かったおかげで、銃弾が突き通すことはなかったことも、記されています(以上、大石学・佐藤宏之・小宮山敏和・野口朋隆『現代語訳徳川実紀 家康公伝3 【逸話編】三河から関東の覇者へ』より)。
本多正信は一揆勢の軍師ではなかった?
次は本多正信について、お話ししましょう。
ドラマでは家康勢から離れ、空誓上人の軍師として、家康の前に立ちはだかっています。
正信は、熱心な浄土真宗本願寺派の門徒であり、三河一揆の際には一揆勢に与したといわれます。
ですが、正信は空誓上人のもとではなく、家康に反旗を翻していた松平氏譜代の重臣・酒井忠尚が城主である上野城(愛知県豊田市)に籠もったとされます(『三河物語』)。
正信が上野城に籠もった理由は、定かではありません。
ドラマの正信は、家康とどう対決するのでしょうか。
榊原康政と本多忠勝は同じ年
最後に、榊原康政をご紹介します。
康政は、家康より6歳年下で、天文17年(1548)に生まれました。一緒に登場することの多い山田裕貴さんが演じる本多忠勝と、同じ年です。
祖父の榊原清長が、伊勢国壱志郡榊原村から三河に移り、松平家に仕えたと伝わります。
康政は、永禄3年(1560)の三河国の大樹寺(岡崎市)ではじめて家康に拝謁し、御側付となったといいます。
康政の「康」の字は、軍功により、家康から拝領したものです。
若武者のこれからの活躍が楽しみですね。