【どうする家康】家康(松本潤)は、息子夫婦の不仲の仲裁に赴いていた。嫁姑の関係にも亀裂が
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鷹橋 忍
五徳
「ごとく」から岡崎殿へ
前述の通り、五徳の父は信長です。
母親は織田家家臣・生駒家宗の娘で、「吉乃」とされている女性だといわれています。
同母の兄に、信長の長男・織田信忠、二男・織田信雄がいます(織田信忠の姉とする説もあります)。
「徳姫」ともいわれますが、童名は「ごとく」、または「おごとく」と史料にあり、信康に嫁いでからは「岡崎殿」と称されたといいます(谷口克広『信長と家康の軍事同盟 利害と戦略の二十一年』)。
信康との仲は?
徳川家家臣の松平家忠の日記『家忠日記』の天正7年(1579)6月5日条には、欠字で読めない部分があるものの、「家康が信康と五徳の仲裁にきた」と推測される記述がみられます。
家臣の日記にこのようなことが書かれているということは、信康と五徳の不仲はただならぬものであったのではないかとみる説もあります(『新編岡崎市史 中世2』所収 第四章第二節 新行紀一「信康・築山殿事件」)。
ドラマでは、大岡弥四郎らのクーデターが勃発した天正3年(1575)当時、夫婦円満とはいえなくとも、険悪なものでもなさそうでした。
これから、どう変化していくのでしょうか。
鷹橋忍の「大河ドラマの時間」
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