フィンガー5をやめて電気屋の営業マンへ。19歳のアキラ、極貧生活に【晃さんのターニングポイント#4】
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植田晴美
「どうせ努力しなければいけないなら、 好きなことをしよう」と音楽の世界へ
——電気屋さんでのお仕事はどれぐらい続けられたのですか?
電気屋のセールスマンは2年間。その後、兄の経営するスナック勤めを経て、不動産会社の営業マンをやったのが15年ぐらいかな。フィンガー5の活動を止めたとはいえ、すっきり歌の仕事は止められなかったので、最初の頃はうだうだとやってたんだけど……。途中から営業の仕事も楽しくなっちゃって。おもしろい先輩もいたし、バブルの後半ぐらいにもかかっていたから、時代もよかった。
——15年も営業を続けられたのは、やはり向いている部分もあったのでしょうね。その頃、晃さんが仕事で大切にしていたことは?
自分がしてもらって楽しいと思ったことを後輩にもしよう、ということ。いいものは下に流す、悪いものは流さない。自分がされてイヤだなって思ったことは、絶対にしない。歌であろうと、営業であろうと、そのあたりの基本はいっしょ。
——営業マンとして充実した生活を送っていた晃さんに、また大きな転機が訪れます。
売り上げもあったし、主任になって部下もいたのに、突然、会社の方針で設計に異動になったんです。でも設計の知識なんてない。「ここでまたゼロからやるのか」って少しガッカリしてたときに、たまたま他部署の人と居酒屋で飲んだの。そこで会社を辞める、辞めないっていう話になった。
そうしたら相手がね、「晃さんはいいじゃないですか。歌があるんだから」と。「設計をゼロからやるんだったら、歌手としてまたゼロから始めればいいじゃないか」って言うわけ。
——またいい言葉をくださる人がいらしたんですね。
それでボクも、そっかー。設計も歌もゼロからだから、どっちも努力が必要なのは変わらない。それだったら本当に好きなことで努力しようと。その代わり、二足のわらじは絶対はかないと決めた。
音楽でやっていくのだったら、音楽だけをやる。これはボクの持論なんだけど、音楽でやっていくなら、お金をもらって歌わないとダメ。だから会社はきっぱり辞めて、貧乏でもいい、苦労してもいい、音楽の仕事なら何でも受けようと思った。
でも最初はホントに大変だったよ。ボクがまた音楽をやるっていうことをみんな知らないから、自分で売り込みにいったり、知り合いに仕事をもらったり。またここから苦労が始まるんです(笑)。
▼次回は音楽活動に復帰されてからのお話をうかがいます。▼
晃さんのターニングポイント④
「音楽でやっていくのだったら、音楽だけをやる。だから会社はきっぱり辞めて、貧乏でもいい、苦労してもいい、音楽の仕事なら何でも受けようと思った」
晃さん Profile
あきら●1961年5月9日生まれ。1969年沖縄から上京。1970年兄弟5人“ベイビーブラザース”でデビュー。その後“フィンガー5”に改名。1973年、『個人授業』が爆発的な大ヒットとなり、レコードセールス145万枚突破。『恋のダイヤル6700』『学園天国』と3曲続けて100万枚突破のミリオンセールスを記録し一世を風靡する。その後メンバーの入れ替えやグループの解散等で芸能活動を休止。サラリーマンとして会社勤めの経験を経て2002年より音楽活動を本格的に再開。定期的なライブ活動のほか、TV、ラジオ出演、『夢スター歌謡祭 春・秋』コンサート全国ツアー出演中。
撮影/柴田和宣
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